女性専用車両から考える男女平等とは

女性専用車両にあえて乗り込む男性がいるようだ。

わざわざ騒ぎを起こし、動画を撮ってアップするのは女性専用車両男性差別だ!」と主張する為のパフォーマンス?らしい。

本当に気味が悪いなぁと思う。



日本には欧米でいうレディーファーストという概念が元々ないに等しい。

ただそれは単なる文化の違いで、「男は女を守るもの」という概念は現代の日本にもなんとなく存在している。


人間は元来、群を成す事で生きながらえてきた種族である。

人間がまだ猿に近かった時代から

男は身を呈して外敵から群れを守り、狩に出て食料を確保する役割を担い

女は群や同士のコミュニティを強化し結束力を高め、群の存続を保証する子孫を育む役割を担う。


それは「概ね」今も変わらない。

男性は外に働きに出て、家族という群れに資産を運び

女性は周囲や家族などのコミュニティを強化したいと望みながら子育てをする。

なので本能的な役割の必要とする能力の傾向として

男は短絡的、効率的で瞬発力があり

女は多角的、社交的で想像力がある



しかし、本来ただの役割として過ぎなかった機能が、時代が移り変わると共に形を変え続けてきた。



江戸時代、全体の約1割だった武家層は男尊女卑であった。


武家層が男尊女卑だったのは、戦国時代の名残により武士はとても物騒な仕事であった為、女子供を巻き添えから守る為に受け継がれた習わしであると考えられる。

女性が男性の三歩後ろを下がって歩くのは、前から斬り付けられた時に備えての事で

男性が先に食事に手をつけるのは、毒味のためである。

男性が外敵から身を守ってくれる為の女卑であると知っている女達は、敬意を払って男性を立て内助の功として勤めながら子供を育てた。


男は身を呈して外敵から群を守り、外に出て財を確保する役割を担い

女は群や群れ同士のコミュニティを強化し結束力を高め、群の存続を保証する子孫を育む役割を担う。

まさに本能で受け継がれられてきた人類の男女の形そのものである。



一方、全体の約7割である農民に男尊女卑はなく むしろ女性が強かったそうだ。

平和な暮らしを営む農民は命の危険を伴うような外敵などいないに等しく

女性も男性同様働いている場合も多くあった。


農民の間では

男は身を呈して我が群を守る必要はなく、ただ外に出て財を確保する役割のみを担うものとなり

群の存続を保証する子孫を守り、コミュニティの強化を役割とする女性にとって

群を守らない、その出番のない男性 しかも自らも財を確保する役割を担っていたのなら、男性に敬意を払ってコミュニティの一員として認識するという感覚を持ちづらいであろう。


コミュニティの結束力を高め合う女性達の中で、そのコミュニティの一員として男性を認識しないのなら

農民の間で女性が強いのは当然だったのかもしれない。




明治から昭和初期にかけて、全体として男尊女卑の色合いがこくなる。

武家層のような上流階級への憧れが市民の間に広がったのもあるが、一番は「戦争」だろう。


戦争により再び男は

身を呈して外敵から群を守り、外に出て財を確保する役割を担うという役割の復活を果たし

男性が外敵から身を守ってくれる為の女卑であると知っている女性達は、敬意を払って男性を立て内助の功として勤めた。



このように、本来人間が持つ男女それぞれの性質と役割を発揮している時にのみ、異性が互いに敬意を払えるのだと思う。




では近年はどうだろう。

昭和後期、戦争により男女がそれぞれの役割を果たし、互いに敬意を払っていた理想の男尊女卑の両親の姿を見て育った者達は

戦後もその男女の理想の姿を追い求めた。


しかし戦後、身を呈して群を守る役割を失った男たちに(つまり本来男の持つ本能的な役割を果たしていない事に) 静かに不満や不信を抱える女たちに気づいた男は

女性を力で制圧する事で威厳を保とうと試み始めた。

男尊の強制、亭主関白という名の暴君である。

もちろん、うちの亭主は家族を何より想い いざという時は身を呈して守ってくれるという確かな信頼関係の元、健全な男尊女卑の家庭を営む夫婦もいたであろうが

しかし大部分は家族を守る器も経済力もないというコンプレックスと、妻の静かな不満と不信に怯え、DVやモラハラによって、力で女を抑圧する事でしか威厳とプライドを保てない 名ばかりの亭主関白 もとい糞男がはこびっていた。


そして現代、女性の社会進出に伴いますます役割を失った男達に

更に不満と不信を覚え始めた女性たちに対し、男達は苦肉の策として2つのパターンに分かれ始めた。


1つは、女性に迎合し性別の役割を超えようと試み始めた者。

いわゆる「イクメン」などである。

女性が性別の役割を超え外に働きに出るように、男性もコミュニティの強化に加わるように努め始めた。



もう1つは、女性の不満と不信に怯えながら自身の能力と器の小ささを誤魔化す為に、相も変わらず女性を力で制圧しようとする者である。


DVやモラハラで女性を制圧する手法もまだまだ用いられてはいるが、しかし昨今の女性は強い。

自立し、女一人でも外敵から身を呈して家族を守り養い 更にコミュニティを強化しながら子供を育てる事ができるのだ。

つまり男女の役割を女一人でこなせてしまう。

昨今男性は容易にコミュニティから排除される対象になり得るのである。


そんな中で男性は、いくらDVやモラハラをしても自分のコンプレックスを誤魔化す事ができず、安心感も得られず

男の存在意義や尊厳を奪われる恐怖と、自身の能力のなさ器の小ささのコンプレックスを更にこじらせながら

なけなしのプライドを死守する為、見ず知らずの女性をその場限り制圧する事で満たそうとする暴挙に走る者も現れる。

痴漢や性犯罪、職場でのセクハラ パワハラ、あるいはネットでの女叩き である。



こうなってしまっては、女性にとって男性は外敵以外何者でもない。



外敵を排除する為、女は男を攻撃し始める。

男は男としての存在意義とプライドを死守する為、女を無理やりにでも制圧しようとする。


男性嫌悪、女性嫌悪、飽くなき戦いだ。




もはや本能的な性別の役割など必要のない時代、ジェンダーレスの時代

一刻も早く異性への役割の期待や役割の意義を捨て去らないと、新時代の男女平等が訪れる事は永遠にないだろう。







狂気とはなんなのか。

私が通っていた小学校には、情緒クラスと知的クラスの計2クラスの特別支援学級があった。


突然奇声を上げ、壁にひたすら頭を打ち付ける子。

通常の人間の動きでは考えられないような機敏さで、いきなり殴りかかってくる子。

ニタっとした笑顔で独り言を言ってると思えば、次の瞬間には無表情になって一点をボーッと見つめる子。


気付いた時には既に、私は彼らに強く惹かれていた。

密かに彼らを観察し、彼らが見ている世界は一体どんなものなのかを想像するのが好きだった。

同じ人間でありながら、まるで違う世界を見ているように思える彼らの世界が知りたい。

見て、体感したい。

怖いもの見たさでもボランティア精神でもなんでもなく、その心身の不規則さと 閉鎖された異次元の世界を何の疑いもなく歩いている彼らを見ていると、美しいものに出会った時のような切ないトキメキ感じた。



次に興味を惹かれたのは、統合失調症(急性期)だった。

更に興味深いのは、発症前彼らは私たちと同じような一般的な世界に生きていたという事だ。

突如として狂気の世界に迷い込み、強力な認知バイアスによって狂気の世界は徐々に信実になり現実となっていく。

それを想像すると、切ないようなトキメキを今でも感じる。


「狂気とはどんなものなのか。」



臨床心理学や哲学においての幸福論などで謳われている

「意識と無意識との統合」

統合の究極の状態は、狂気ではないか。

意識と無意識が境目を失い、混沌と統合した状態(マーブル状)と

意識と無意識との間に橋を掛け、必要なとき必要な分だけ行き来できる状態(地層状)と

理想で言えば後者だが、断然前者が純度で言えば高い。

更に進み、意識と無意識が統合し100パーセントの純度(純度という表現はおかしいがあえて純度といいたい)を保った状態とは、どのようなものだろうか。



意識と無意識が境目を失い、混沌と統合したマーブル状。

それなりに生きてくると、いや私が求め続けていた所為なのか

実際に私自身がマーブルになる瞬間

身近な人間がマーブルになってしまった瞬間に立ち会う機会があった。



そこで分かったのは、意識と無意識の地層の境目は意外に脆いのだということだ。

無意識は無意識のまま意識に侵入し、じんわりとマーブルを作る。

パニック障害は、無意識にある防衛本能が恐怖や不快感として意識に侵入している。

鬱や強迫性障害などの神経症も同様だ。

意識に侵入した無意識は認知を歪ませ、固定化された恐怖の中、マーブルの狂気は確実に意識のスペースを蝕む。


このマーブルが更に侵入し勢いを増すと、一時的に もしくは二度と引き返せなくなる場合もある。

統合失調症の人格荒廃などだ。



私に降りかかった身近な例だと、育ての親である祖父母の認知症だった。


同じ流れの時の中で、一般的な世界という川の流れの中で泳いでいたはずの祖母は

全く別の世界の海に突如流れ着いてしまったような印象だった。


もはや川ではない、海なのだ。

川にはない、不規則な波や渦潮にのまれ 時に川にはいない大きなクジラやイルカやクラゲに出会う。



そして祖母は泳ぐのやめた。

マーブルは進行し、意識と無意識の区別さえ恐らくない終末期 意識形態で言えば荒廃。

目の前に、数年前まで時間や思い出を共有できていた祖母がいるはずなのに

共有していたはずのものは交わる事なく祖母をスルリと通り抜け、ポツンと横たわり行き場をなくし私の元へ戻ってくる一方通行。


交わる事がないという事は、これほどまでに切ないのか。

共有ができないという事は、これほどまでに悲しいのか。



いや、本当はずっと分かっていた。

共有はできるはずがないという事を。



突然奇声を上げ、壁にひたすら頭を打ち付ける子。

通常の人間の動きでは考えられないような機敏さで、いきなり殴りかかってくる子。

ニタっとした笑顔で独り言を言ってると思えば、次の瞬間には無表情になって一点をボーッと見つめる子。


意識と無意識とが境目を失い、混沌と統合した世界を知りたい。見て 感じたい。

それはただ、ただ私は交わる事がない世界を共有したかっただけなのだ。



マーブルが勢いを増し進行を続け、後戻りできない世界と 共有したい。叶わない事を知っているからこその切ないようなトキメキ。

共有したかったのだ。


それに気付いた時、私は臨床心理の道にいく決意をした。


意識に侵入した無意識が織りなすマーブルを整理しそれらの橋渡しをする仕事をしているが

今でもやはり、共有はできない。

きっとそこは孤独な世界だろう。


私がそこに本当にたどり着いた時は既に

辿り着いた事にさえ気付かない。

永遠に届かないのだ。


「自己肯定感を高める子育て」にウンザリする。

ここの所、子育ての講話やセミナーに立て続けに参加した。

勉強のため率先して参加したというより、強制参加なのだが。

二週間で3つの講話を聞いたが、全てもれなく自己肯定感バンザイ論。


日本の育児もようやく自己肯定感を高める事の重要性に気付き、母親たちに呪文のように、いや呪いのように刷り込む事に必死である。


自己肯定感とは

・自分は大切な存在だ

・自分は必要な存在だ

・自分の事が好き

と自然に思える心の事。


「これが出来たら こうなれたら大切で価値のある存在だと思う(思わせる)」のではなく

「ただいるだけで大切で価値のある存在だと思う(思わせる)」という事だ。



自己肯定感が生きる上で重要なのは間違いない。

だが、子育てセミナーで講師が切々と語る

自己肯定感が低いとどうなってしまうか

自己肯定感を高める子育てがどれだけ重要か

自己肯定感を高める為にこうしてはいけません!

こうしましょう!ね!

子供の自己肯定感を高める事ができる母親になる為に、明日から必ず実践しましょう!ねっ!


というのはまさに

「これが出来たら こうなれたら大切で価値のある存在だ」

と世の母親たちに思わせる、自己肯定感の定義と真逆のやり方である。


むしろ問題なのは、子育てをしている母親自身の自己肯定感だ。

自己肯定感などクソ喰らえと言わんばかりの団塊の世代に育てられた母親たちなのだ。


子育てにおいて自己肯定感は重要だと気付いた大人達が

次世代を生きる子どもたちに自己肯定感という期待の種を蒔く。

私たちのようにはならないように...と、まるで団塊の世代への復讐でもするかのように

必死になって自己肯定感を高める育児を広め実践する。



自己肯定感の低い団塊の世代は、我慢だ根性だ自己犠牲の精神だなどと

「立派な大人になってほしい」が為に生き方の押し売りをという名の期待の種を蒔いた。


そうして育てられた自己肯定感の低い現代の母親たちは、我慢と根性と自己犠牲の精神そのままに、「立派な母親」になるために

自己肯定感という期待の種を蒔いている。


こうして犠牲になった現代の母親たちは

どんな顔で「あなたはいるだけで価値のある存在なのよ」と子に伝えるのだろう。


伝えられた子どもたちは何を受け取るのだろう。



それはまるで、飢えてやせ細り引きつった笑顔を浮かべる母親から手渡された最後の一切れのパンを

躊躇なく受け取り頬張らないとならないと思うように。

しかも、それを母親の目の前で美味しそうに食べないといけないというように。



最近、子ども達の国語力の低下が叫ばれているそうだ。

それもそうだろう。


痩せ細った母親が手渡した最後のパンを、子どもはどういう気持ちで受け取ればいいのだろう。

「あなたはいるだけで価値のある存在なのよ」と子どもにいいながら

「立派な母親でなければ私には価値がない」と思っている母の矛盾したメッセージを

子どもはどういう気持ちで受け取ればいいのだろう。


あまりに複雑だ。

そして母の矛盾したメッセージのその真意に

気付いてはならないと子どもは無意識に知っている。

子どもは真意に気付かない事を日々学んでいる。



団塊の世代の大人たちに求められ託された「立派な大人」を追い求めるように

子どもたちが「自己肯定感」を追い求める事のないよう。

求め託す必要はないという安心感を母親たちが持てるまで。


母親たちを満たしふくよかな笑顔にするパンが必要だ。

願わくば、子どもが母親にパンを手渡すという使命を背負う事ないよう

大人たちが満たし合える社会が必要なのだ。






うつ病などの精神疾患含む病の遺伝的要因の考察

うつの発症は、遺伝的要因も大いにあるのではないかと言われている。


仕事上うつを抱えている方と接する機会が多いのだが、生育歴を辿る中で祖父母や親戚 両親や兄弟に発症歴がある方 もしくは疑いのある方は半数程度である。


学術的医学的に基づいた見解ではなく、あくまで私の考察なのだが

精神疾患含む病気などの好ましくない遺伝は、DNAの誤解による継承だと思っている。


生物の最大の目的は

「生き抜き、生き残る事」

それに付随し、種の存続と繁栄がある。


人間がそもそも持ち合わせている「本能」と呼ばれるものを 遺伝 とは呼ばない。

産まれたばかりの赤ちゃんが誰に教わるわけでもなく、当然のように母乳の吸い方を知っているのは、遺伝子に組み込まれた生存本能であり

家族という群れ、学校という群れ、社会という群れを成し生きるのは、人間という種が生き残る為の生存本能である。

それらの群れから弾かれる=生き残れない というような強い恐怖心を持つのもごくごく自然な本能であると同時に

群れの中の異分子を排除しようとするのもまた、人間の本能である。


本能は、生き抜き 生き残る為に最も継承される必要のある生存戦略だ。



PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、命の安全を脅かされるような出来事によって 強い精神的衝撃を受ける事が原因で起こる著しい苦痛や生活機能の障害をもたらすストレス障害である。


生命の根本的な目的である「生き抜く 生き残る」という土台が覆される出来事の衝撃は

今後、生き抜き生き残る為に必要な情報として遺伝子に深く刻まれる必要がある。

二度と生命の危険を晒すことのないよう学習する必要があるのだ。


PTSDは、「記憶の凍結」が起こると言われている。

PTSDの元となった場面に少しでも近い状況、近い雰囲気を察知すると、冷凍保存された記憶がありありと蘇ってくる。

俗にフラッシュバックと呼ばれる現象だ。

しかも、少しでも似たような場面に出くわせば出くわすほど恐怖心は拡大され、倍増していくと言われている。


記憶の凍結と、恐怖心の拡大。

これは、生命の「生き抜く 生き残る」という最大の目的が二度と脅かされることのないよう

その時見た景色、その時感じた匂い、その時聴いた音 感覚... 五感をフルに使い記憶に焼き付け凍結させ

同じような状況 場所を避けようとする為の生存本能である。

また、同じような状況において著しく恐怖心を煽り 安全な場所に逃避させようとする為の生存本能である。




「本能は生き抜き 生き残る為に最も継承される必要のある、生存戦略だ。」

そう考えると、生き抜き 生き残る為に伝承される必要があるものとして選ばれた事柄の中に

精神疾患含む様々な病もあるのではないだろうか。



例えば、遺伝的な要因が大きいとされる身近な病気の代表として「アレルギー」がある。

私自身にも幼い頃は卵アレルギーがあり、今現在もハウスダストや猫のアレルギーがある。

ギャグみたいな話だが、私の遥か遠い祖先は誤って毒を口にした経験があるのだと思っている。

毒を摂取してしまった時に起こったPTSDと二度と同じ過ちを繰り返さない為の記憶の凍結。

それにより、似た物質に対する過剰反応が継承される中で拡大され 身体的症状として「アレルギー」となったのではないか。



では、うつの場合どうだろう。

これは特に、冬季うつ病が分かりやすい。

冬季うつ病とは、冬になると気分が落ち込み

具体的な症状として、倦怠感 過食 過睡眠などが挙げられる。

カロリーを蓄えた後、生命活動をセーブする事によって、命を温存する為のいわば「冬眠」だ。

急な気象変動などによる食糧不足や生活環境の著しい変化により、生命活動を極端にセーブさせ生存期間を伸ばす為の戦略である。


冬季うつ病以外のうつ病の症状も、生命活動のセーブという観点でいうと共通している。



一般的なうつ病も引き金として、環境の変化や 適応しにくい状況での過剰負荷による睡眠不足やストレス過多が挙げられる。


遥か遠い祖先、急な天変地異などに見舞われた際の生命活動をセーブさせるという生存戦略

その際のPTSDと記憶の凍結。

生き抜き 生き残る為に必要な生存戦略として深く遺伝子に刻まれ、選択され継承された記憶。

継承される中で、似た環境に対する過剰反応と拡大されていく恐怖心の中で昨今

環境の変化や 適応しにくい状況での過剰負荷による睡眠不足やストレス過多に見舞われると、凍結された記憶が遺伝子の中で呼び起こされ

生命活動のセーブ=「うつ病」と呼ばれる形で再現されているのではないか。




人類は「生き抜く 生き残る」という最大の目的があるにも関わらず

生命を脅かすような遺伝的な病は数多くある。


私は精神疾患含む病気などの好ましくない遺伝は、DNAの誤解による継承だと思っている。


何十世紀にも渡る個人の歴史の中で、生命の安全を脅かされるような危機的状況の中、起こった記憶の凍結。

元々は生き抜き生き残る為の戦略として必要だった記憶は、恐怖の拡大により形を変え

今や必要のないはずのものが遺伝という形で更に継承され続け

本来の目的とは真逆の、生命を脅かす病として個人を苦しめている。


うつ病などの精神疾患始め、遺伝的要素を含む病は

遺伝子レベルでの改革が必要なのである。


元々は己の命を守る為の戦略であった事

凍結し拡大され、形を変えて今もなお継承され続けるほどの恐怖を味わったという事

だが、今はもはや必要のない情報であり

科学や生活環境に伴う人類自体の進化により

それほど怯え恐れる状況下には陥る事はそうそう無いという確信


それらをひとつひとつ丁寧に理解し、遺伝子に説得する必要があるだろう。




最後にこのブログは、学術的医学的に基づいた見解ではなく

単に私個人の考察である。

もしかしたらこのような論は既にあり、研究もなされているのかもしれないので

ドヤ顔で発信するような事ではないのかもしれない 



子宮委員長はる 子宮系女子

「子宮委員長はる」という女性を知ったのは、確か2年くらい前にFacebookで友達が上げていた記事を見たのがキッカケだっただろうか。

「パーソナリティ障害」を持つの方によくある魅力とパワーを持った女性だなっていう印象。
そしてパーソナリティ障害の王道の弊害といいますが、ありがちなパターン通り数々の異性同性を振り回し生きている。

ただし、彼女の場合特殊なのが(一見するとだけれど)感情と欲望と本能に振り回される彼女自身も周りも、傷付いていないし不幸になるどころか 
彼女の行く先々はまるで日照りの土地に突如現れたハリケーンの如く
「いや、そこまでの暴風雨は必要じゃなかったっていうか、家々もめちゃくちゃになっちゃったけど、、結果うん、、干ばつ問題解決されたしよかった、、かな。」みたいな。


それはいいとして、ではそれと子宮に何の関係があるのか。
「子宮の声に従って生きる」
その言葉や生き方に感銘を受ける女性を「子宮系女子」と呼ぶらしい。
私は彼女の本を読んだ事がないので彼女の思想は知らない。
知っている事といえば 

元?風俗嬢
詳しくは知らないが波乱万丈だったらしい人生
中絶?
父親が分からない子を出産
その子をこの父親じゃないどっかのハゲに預けて育児を放棄?
円満不倫
円満離婚
なんとかというスピリチュアル系男性と再婚


子宮の声に従った結果がこれらしい。
一般の方だととんでもない事なんだろう。

子宮の声に従ったから結果円満なのではなく単純に
「はるちゃんだから仕方がないよな」
「期待した俺が(私が)バカなんだな」
そう思わせてしまうくらいの変えようのない個性があるという事なんだと思う。



「子宮」という言葉を連呼する彼女だが、私には彼女がとても男性的に見える。

近年トランスジェンダーなど性別のボーダーラインが曖昧になり、平等という名のもと平均化が進んでいる。

「子宮」という女性を象徴する臓器に 女性性に しがみつきながら
彼女はますます自身の持つ男性性に振り回される。
「子宮」という女性を象徴する臓器に 女性性に しがみつきながら
彼女は性別の垣根を超える進化のパスポートを人々に見せつける。

そもそも性別とは何なのか。

単純に本能のメカニズムとして
・男性は自分の種を後世に残す。
・女性は種を守り育む。
だろうか。

古来
男性は生き抜く為に戦い、効率よく獲物を仕留める計算力と肉体を持ち
女性は生き抜く為に 群れというコミュニティの結束を深める共感力と言語力を持つ。


本能に従うならば、本来女性は 子宮は
種(子ども)を守り育むコミュ二ティである家族や仲間との結束を深める事で
より良く種を守り育む環境を望んでいるはずだ。

そう考えると
健やかに子どもを育てようと奮闘する世の母親達の方がよっぽど、子宮の声に従っている。

だが、子宮委員長はるの場合は障害のせいか気質のせいか、それが上手にできないのだろう。
できない というか、子宮が熱暴走しているような印象かもしれない。

みんな当たり前にできることができないと知った時、できない自分を強く意識しコンプレックスを持つように
できない仲間を探し安心したいという心理を持つように
できない自分を受け入れてくれる誰かを探し求めるように
できない自分を軸にした生き方に、知らず知らず振り回される。


子宮が本来持つ目的を達成できないことで
逆に子宮を強く意識し
子宮を軸にした生き方に、子宮に振り回される彼女。

彼女が持つ強い男性性を自身がシンプルに受け入れるわけではなく
あくまで女性として 女性の象徴である臓器にしがみつき
子宮の声として受け取ることが、なんとも健気で
なんとも痛々しく、なんとも可愛らしい。

子宮の欲求に拗れる事なく素直に従い、本来の目的を達成して種を守り育む幸せを知っている私は
まぁ、きっと彼女は辛いんだろうな とも勝手に思う。

ただ言及したように近年は、性別の垣根を超える流れに人類は向かっている。
子宮云々は置いておいて、新しい流れとして
男性性を強く持つ女性や
女性性を強く持つ男性は
ますます広く受け入れられるようになるだろう。

自身の男性性とその生き辛さ悩む女性が増え、子宮にしがみつきたくなるのは
新しい流れに乗る事の最後の抵抗と乗るまいとする足掻きなのか
はたまた子宮系アンチもまた、同じような抵抗と足掻きの抱えているが故なのか知らないが

子宮委員長はるの持つ男性性が、子宮という言葉で誤魔化され 
男性は知る由もない神秘的になぞらえた「子宮」を祀る事によって
自身の強い男性性を悟られず 女性のまま女性として男に受け入れられるその一石二鳥感と利便性。
そこに惹かれる「子宮系女子」が多いのは、近年の人類の流れを象徴しているように感じる。



と勝手に思うのでした。