狂気とはなんなのか。

私が通っていた小学校には、情緒クラスと知的クラスの計2クラスの特別支援学級があった。


突然奇声を上げ、壁にひたすら頭を打ち付ける子。

通常の人間の動きでは考えられないような機敏さで、いきなり殴りかかってくる子。

ニタっとした笑顔で独り言を言ってると思えば、次の瞬間には無表情になって一点をボーッと見つめる子。


気付いた時には既に、私は彼らに強く惹かれていた。

密かに彼らを観察し、彼らが見ている世界は一体どんなものなのかを想像するのが好きだった。

同じ人間でありながら、まるで違う世界を見ているように思える彼らの世界が知りたい。

見て、体感したい。

怖いもの見たさでもボランティア精神でもなんでもなく、その心身の不規則さと 閉鎖された異次元の世界を何の疑いもなく歩いている彼らを見ていると、美しいものに出会った時のような切ないトキメキ感じた。



次に興味を惹かれたのは、統合失調症(急性期)だった。

更に興味深いのは、発症前彼らは私たちと同じような一般的な世界に生きていたという事だ。

突如として狂気の世界に迷い込み、強力な認知バイアスによって狂気の世界は徐々に信実になり現実となっていく。

それを想像すると、切ないようなトキメキを今でも感じる。


「狂気とはどんなものなのか。」



臨床心理学や哲学においての幸福論などで謳われている

「意識と無意識との統合」

統合の究極の状態は、狂気ではないか。

意識と無意識が境目を失い、混沌と統合した状態(マーブル状)と

意識と無意識との間に橋を掛け、必要なとき必要な分だけ行き来できる状態(地層状)と

理想で言えば後者だが、断然前者が純度で言えば高い。

更に進み、意識と無意識が統合し100パーセントの純度(純度という表現はおかしいがあえて純度といいたい)を保った状態とは、どのようなものだろうか。



意識と無意識が境目を失い、混沌と統合したマーブル状。

それなりに生きてくると、いや私が求め続けていた所為なのか

実際に私自身がマーブルになる瞬間

身近な人間がマーブルになってしまった瞬間に立ち会う機会があった。



そこで分かったのは、意識と無意識の地層の境目は意外に脆いのだということだ。

無意識は無意識のまま意識に侵入し、じんわりとマーブルを作る。

パニック障害は、無意識にある防衛本能が恐怖や不快感として意識に侵入している。

鬱や強迫性障害などの神経症も同様だ。

意識に侵入した無意識は認知を歪ませ、固定化された恐怖の中、マーブルの狂気は確実に意識のスペースを蝕む。


このマーブルが更に侵入し勢いを増すと、一時的に もしくは二度と引き返せなくなる場合もある。

統合失調症の人格荒廃などだ。



私に降りかかった身近な例だと、育ての親である祖父母の認知症だった。


同じ流れの時の中で、一般的な世界という川の流れの中で泳いでいたはずの祖母は

全く別の世界の海に突如流れ着いてしまったような印象だった。


もはや川ではない、海なのだ。

川にはない、不規則な波や渦潮にのまれ 時に川にはいない大きなクジラやイルカやクラゲに出会う。



そして祖母は泳ぐのやめた。

マーブルは進行し、意識と無意識の区別さえ恐らくない終末期 意識形態で言えば荒廃。

目の前に、数年前まで時間や思い出を共有できていた祖母がいるはずなのに

共有していたはずのものは交わる事なく祖母をスルリと通り抜け、ポツンと横たわり行き場をなくし私の元へ戻ってくる一方通行。


交わる事がないという事は、これほどまでに切ないのか。

共有ができないという事は、これほどまでに悲しいのか。



いや、本当はずっと分かっていた。

共有はできるはずがないという事を。



突然奇声を上げ、壁にひたすら頭を打ち付ける子。

通常の人間の動きでは考えられないような機敏さで、いきなり殴りかかってくる子。

ニタっとした笑顔で独り言を言ってると思えば、次の瞬間には無表情になって一点をボーッと見つめる子。


意識と無意識とが境目を失い、混沌と統合した世界を知りたい。見て 感じたい。

それはただ、ただ私は交わる事がない世界を共有したかっただけなのだ。



マーブルが勢いを増し進行を続け、後戻りできない世界と 共有したい。叶わない事を知っているからこその切ないようなトキメキ。

共有したかったのだ。


それに気付いた時、私は臨床心理の道にいく決意をした。


意識に侵入した無意識が織りなすマーブルを整理しそれらの橋渡しをする仕事をしているが

今でもやはり、共有はできない。

きっとそこは孤独な世界だろう。


私がそこに本当にたどり着いた時は既に

辿り着いた事にさえ気付かない。

永遠に届かないのだ。