「自己肯定感を高める子育て」にウンザリする。

ここの所、子育ての講話やセミナーに立て続けに参加した。

勉強のため率先して参加したというより、強制参加なのだが。

二週間で3つの講話を聞いたが、全てもれなく自己肯定感バンザイ論。


日本の育児もようやく自己肯定感を高める事の重要性に気付き、母親たちに呪文のように、いや呪いのように刷り込む事に必死である。


自己肯定感とは

・自分は大切な存在だ

・自分は必要な存在だ

・自分の事が好き

と自然に思える心の事。


「これが出来たら こうなれたら大切で価値のある存在だと思う(思わせる)」のではなく

「ただいるだけで大切で価値のある存在だと思う(思わせる)」という事だ。



自己肯定感が生きる上で重要なのは間違いない。

だが、子育てセミナーで講師が切々と語る

自己肯定感が低いとどうなってしまうか

自己肯定感を高める子育てがどれだけ重要か

自己肯定感を高める為にこうしてはいけません!

こうしましょう!ね!

子供の自己肯定感を高める事ができる母親になる為に、明日から必ず実践しましょう!ねっ!


というのはまさに

「これが出来たら こうなれたら大切で価値のある存在だ」

と世の母親たちに思わせる、自己肯定感の定義と真逆のやり方である。


むしろ問題なのは、子育てをしている母親自身の自己肯定感だ。

自己肯定感などクソ喰らえと言わんばかりの団塊の世代に育てられた母親たちなのだ。


子育てにおいて自己肯定感は重要だと気付いた大人達が

次世代を生きる子どもたちに自己肯定感という期待の種を蒔く。

私たちのようにはならないように...と、まるで団塊の世代への復讐でもするかのように

必死になって自己肯定感を高める育児を広め実践する。



自己肯定感の低い団塊の世代は、我慢だ根性だ自己犠牲の精神だなどと

「立派な大人になってほしい」が為に生き方の押し売りをという名の期待の種を蒔いた。


そうして育てられた自己肯定感の低い現代の母親たちは、我慢と根性と自己犠牲の精神そのままに、「立派な母親」になるために

自己肯定感という期待の種を蒔いている。


こうして犠牲になった現代の母親たちは

どんな顔で「あなたはいるだけで価値のある存在なのよ」と子に伝えるのだろう。


伝えられた子どもたちは何を受け取るのだろう。



それはまるで、飢えてやせ細り引きつった笑顔を浮かべる母親から手渡された最後の一切れのパンを

躊躇なく受け取り頬張らないとならないと思うように。

しかも、それを母親の目の前で美味しそうに食べないといけないというように。



最近、子ども達の国語力の低下が叫ばれているそうだ。

それもそうだろう。


痩せ細った母親が手渡した最後のパンを、子どもはどういう気持ちで受け取ればいいのだろう。

「あなたはいるだけで価値のある存在なのよ」と子どもにいいながら

「立派な母親でなければ私には価値がない」と思っている母の矛盾したメッセージを

子どもはどういう気持ちで受け取ればいいのだろう。


あまりに複雑だ。

そして母の矛盾したメッセージのその真意に

気付いてはならないと子どもは無意識に知っている。

子どもは真意に気付かない事を日々学んでいる。



団塊の世代の大人たちに求められ託された「立派な大人」を追い求めるように

子どもたちが「自己肯定感」を追い求める事のないよう。

求め託す必要はないという安心感を母親たちが持てるまで。


母親たちを満たしふくよかな笑顔にするパンが必要だ。

願わくば、子どもが母親にパンを手渡すという使命を背負う事ないよう

大人たちが満たし合える社会が必要なのだ。